上地八幡宮の境内

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上地八幡宮についての紹介

上地八幡宮の由緒

上地八幡宮を創建した源範頼
創始の折、上地八幡宮は、郷士「大見藤六」の屋敷に隣接した未だ小さな神社でした。
元暦元年(西暦 1184年・平安時代末期)源頼朝の弟 源範頼公が平家討伐に向かう途中、藤六の屋敷で休息した折、この小社であった上地八幡宮に気付き、この神社には何の神様をお祀りしているのかと藤六に尋ねました。
藤六が「八幡宮をお祀りしております。」と答えると、範頼公はとても喜び、八幡宮は源氏の氏神であり守護神であると、この上地八幡宮に日頃の御礼を申し上げ、平家との戦いに向け勝利を祈願されました。
そして範頼公は「私がこの戦で勝利を収めることができたのなら、ぜひともこの神社をもっと立派な社殿に建て替えさせて欲しい」と言い残して戦に向かいました。
勝運の守護神・八幡宮の御神徳により平家との戦に勝利し、すでに三河の守護に就いていた範頼公は、建久元年( 1190年・鎌倉初頭)立派な社殿を寄進造営し、新たに鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を併せてお祀りされました。  
上地八幡宮を創建した源範頼
創始の折、上地八幡宮は、郷士「大見藤六」の屋敷に隣接した未だ小さな神社でした。

元暦元年(西暦1184年・平安時代末期)源頼朝の弟 源範頼公が平家討伐に向かう途中、藤六の屋敷で休息した折、この小社であった上地八幡宮に気付き、この神社には何の神様をお祀りしているのかと藤六に尋ねました。
藤六が「八幡宮をお祀りしております。」と答えると、範頼公はとても喜び、八幡宮は源氏の氏神であり守護神であると、この上地八幡宮に日頃の御礼を申し上げ、平家との戦いに向け勝利を祈願されました。
そして範頼公は「私がこの戦で勝利を収めることができたのなら、ぜひともこの神社をもっと立派な社殿に建て替えさせて欲しい」と言い残して戦に向かいました。
勝運の守護神・八幡宮の御神徳により平家との戦に勝利し、すでに三河の守護に就いていた範頼公は、建久元年(1190年・鎌倉初頭)立派な社殿を寄進造営し、新たに鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を併せてお祀りされました。 

上地八幡宮の祭神

応神天皇(おうじんてんのう)・・・弓の神様で勝運の神様
八 剱 命 (やつるぎのみこと)・・・熱田神宮のご祭神で剣の神様
仁徳天皇(にんとくてんのう)・・・聖帝と呼ばれ慈愛の神様
天照大御神(あまてらすおおかみ)・・・日本の総氏神様で伊勢神宮内宮のご祭神
 
秋 葉 社・・・ 火の神の迦具土神(かぐつちのかみ)を祀り防火の神様
健 勲 社・・・ 日清・日露戦争・大東亜戦争にて散華されたご英霊
うなり石・・・ 道祖神(どうそじん・みちあえのかみ)を祀る交通安全の神様

上地八幡宮の神徳

当社には、勝運の守護神である應神天皇と、慈愛の守護神である仁徳天皇が祀られています。應神天皇は生涯、勝利運に守られた「弓」の得意な神様で一発必中・一念的中に幸運をお導きくださいます。
本殿を寄進された源範頼公も当宮に戦勝祈願をされ見事に勝利を収められました。
江戸時代には弓矢の神・勝運の神として武人が多く参拝されました。
勝負事だけに限らず、様々な願いを達成・成就へと導いてくださる神様として、子授安産・進学受験を始め、諸事難関を突破する力をお与えくださいます。
仁徳天皇は應神天皇の皇子で、貧しく生活に苦しんでいる国民を想い、3年もの間、全ての税を免除し国民を労りました。この政策により国は潤い国民は活力を見いだしました。これにより仁徳天皇の在位期間は「聖の御代」、仁徳天皇は「聖なる帝」と呼ばれました。
仁徳天皇は慈愛の守護神として思いやりと慈しみをお与えくださいます。
当社には力強い「動」の御神徳をお持ちになる応神天皇と優しい「静」の御神徳をお持ちになる仁徳天皇、そして、日本国と日本国民をお守りくださる天照大神をお祀りしております。

上地八幡宮を創建した源範頼の説明

範頼は、源氏の九代目頭領 源義朝の六男で、兄の頼朝 (よりとも )・弟の義経 (よしつね )とは異母兄弟です。

現在の静岡県浜松市である遠江国・蒲御厨(とおとうみのくに・かばのみくりや)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。
生年は不詳ですが、義朝が仁平三年(1153年)に池田宿滞在の折にできた子とされています。
頼朝と同じく熱田神宮大宮司、藤原季範に養育を受け、治承四年(1180年)頼朝の挙兵に伊豆に駆けつけました。そして、義経とともに木曾義仲を討ち従五位三河守に任ぜられました。
1185(元暦2)年の壇ノ浦の戦いで平家追討の源氏総大将をつとめ、鎌倉幕府の確立にも大きな功績を残しました。

義経が鎌倉幕府反逆の罪に問われ、頼朝から義経追討を命ぜられましたが、「弟を討つことはできない」と拒否したため頼朝の怒りをかい、義経と同様、謀叛の疑いをかけられ、建久 4(1193)、伊豆の修善寺に幽閉され殺害されました。

上地八幡宮の略歴

それ以前 豪族 大見藤六 邸内に八幡宮を勧請し祀る
元暦 元年(1184)源範頼公 総大将となり当宮に戦勝祈願する
建久 元年(1190)源範頼公 社殿を寄進建立する
明暦 元年(1655)本殿大修繕をおこなう
元禄 13年(1700)本殿を彩色する。領主 松平弾正正忠 調度品を献進する
寛保   3年(1743)正面参道一の鳥居建立
宝暦   6年(1756)本殿大修繕をおこなう
大正   7年(1918)本殿大修繕をおこない 神門・透塀を新築する
大正 15年(1926)本殿一棟 国宝に指定される
昭和 15年(1940)本殿屋根葺き替え工事
昭和 23年(1948)拝殿を新築する
昭和 42年(1967)本殿屋根葺き替え工事
昭和 45年(1970)社務所を新築する
昭和 56年(1981)境内地を拡幅造成する
昭和 59年(1984)幄舎・神楽殿を新築する
平成 12年(2000)本殿屋根葺き替え工事並びに本殿彩色調査をうける
平成 13年(2001)東参道整備事業にて境内通路を整備する
平成 23年(2011)防災施設事業として 境内の消防設備・防災設備を整備する

上地八幡宮の修繕の奉行や工匠

【建久 元年(1190)社殿建立】
 奉行 比企藤四郎能員
 工人 武田番匠 
【明暦 元年(1655)本殿大修繕】
 奉行 代官早川吉久
 工人 山本長八(尾州知多郡)
【元禄 13年(1700)本殿小修繕並びに彩色】
 奉行 代官早川吉尚
 工人 鈴木園右衛門
 塗師 金澤九右衛門 竹内勘右衛門
【宝暦  6年(1756)本殿大修繕】
 奉行 代官早川又左衛門光親
 名主 田中佐平治
 組頭 本多惣八 成瀬与右衛門
【安永  7年(1778)本殿覆屋建造】
 領主 松平伊豆守
 工人 山本平助 甚右衛門(尾州知多郡大井村)

上地八幡宮の境内の配置

上地八幡宮の境内配置と案内