勝運と厄除けをつかさどる弓の神様


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由 緒

源範頼画像 鎌倉国宝館蔵.jpg
昔、上地八幡宮は、この地の郷士「大見藤六」の屋敷に隣接した小さな祠(ほこら)でした。
元暦元年(西暦1184年・平安時代末期)源頼朝の弟、源範頼公が平家討伐に向かう途中、藤六の屋敷で休息した折、範頼公が屋敷の隣にある祠を見付け、この祠は何の神様をお祀りしている祠かと藤六に尋ねました。
藤六が、「八幡宮がお祀りされております」と答えると、範頼公は八幡宮は私の氏神であり守護神であると喜び、その祠に祀られていた八幡神に日頃の御礼を申し上げ、戦勝の祈願をされました。
範頼公は「私がこの戦で勝利を収めることができたのなら、ぜひとも、この小祠を立派な社殿に建て替えさせて欲しい」と言い残して戦に向かいました。
勝運の守護神・八幡宮の御神徳により平家との戦に勝利し範頼公が三河の守護に命じられると、建久元年(西暦1190年・鎌倉時代初期)範頼公は立派な社殿を造営し、祠に祀られていた八幡宮と鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を合わせてお祀りされました。

源 範頼(のりより)

範頼は、源氏の九代目頭領 源義朝の六男で、兄の頼朝(よりとも)・弟の義経(よしつね)とは異母兄弟です。
現在の静岡県浜松市である遠江国・蒲御厨(とおとうみのくに・かばのみくりや)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。
生年は不詳ですが、義朝が仁平三年(1153年)に池田宿滞在の折にできた子とされています。
頼朝と同じく熱田神宮大宮司、藤原季範に養育を受け、治承四年(1180年)頼朝の挙兵に伊豆に駆けつけました。そして、義経とともに木曾義仲を討ち従五位三河守に任ぜられました。
1185(元暦2)年の壇ノ浦の戦いで平家追討の源氏総大将をつとめ、鎌倉幕府の確立にも大きな功績を残しました。
義経が鎌倉幕府反逆の罪に問われ、頼朝から義経追討を命ぜられましたが、「弟を討つことはできない」と拒否したため頼朝の怒りをかい、義経と同様、謀叛の疑いをかけられ、建久4年(1193年)、伊豆の修善寺に幽閉され殺害されました。
家系図.jpg
「源範頼公 源氏 家系図」

→もっと知りたい方へ【ご紹介】
     『上地八幡宮記』(和装本) 西尾市立図書館岩瀬文庫所蔵
     『蒲桜爛漫~頼朝の弟 義経の兄 範頼』堀和久著 秋田書店

神社の略歴

それ以前 豪族 大見藤六 邸内に八幡宮を勧請し祀る
元暦 元年(1184)源範頼公 総大将となり当宮に戦勝祈願する
建久 元年(1190)源範頼公 社殿を寄進建立する
明暦 元年(1655)本殿大修繕をおこなう
元禄 13年(1700)本殿を彩色する。領主 松平弾正正忠 調度品を献進する
寛保  3年(1743)正面参道一の鳥居建立
宝暦  6年(1756)本殿大修繕をおこなう
大正  7年(1918)本殿大修繕をおこなう
大正 14年(1925)本殿一棟 国宝に指定される
昭和 23年(1948)拝殿を新築する
平成 12年(2000)本殿屋根葺き替え工事並びに本殿彩色調査をうける
平成 13年(2001)東参道整備事業にて境内通路を整備する
平成 23年(2011)防災施設事業として 境内の消防設備・防災設備を整備する

修繕の概略

【建久 元年(1190)社殿建立】
 奉行 比企藤四郎能員
 工人 武田番匠

【明暦 元年(1655)本殿大修繕】
 奉行 代官早川吉久
 工人 山本長八(尾州知多郡)

【元禄 13年(1700)本殿小修繕並びに彩色】
 奉行 代官早川吉尚
 工人 鈴木園右衛門
 塗師 金澤九右衛門 竹内勘右衛門

【宝暦  6年(1756)本殿大修繕】
 奉行 代官早川又左衛門光親
 名主 田中佐平治
 組頭 本多惣八 成瀬与右衛門

【安永  7年(1778)本殿覆屋建造】
 領主 松平伊豆守
 工人 山本平助 甚右衛門(尾州知多郡大井村)

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上地八幡宮

〒444-0824
愛知県岡崎市
上地町字宮脇48番地
TEL / FAX
(0564)52-6145

アクセス

JR岡崎駅より2.2Km

バス;
JR岡崎駅又は名鉄東岡崎駅より「南部地域交流センター行」乗車。「願成寺前」下車。進行方向へ徒歩すぐ右手入口。

高速道路;
岡崎ICより西尾方面
約15分

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